伝わったはずだったのに、崩れたのは、あの人だった。

問いは届いた。構造も渡した。
言葉も、文脈も、ズレてはいなかった……そう思っていた。
でも、その相手は、構造ごと自分を壊していった。
まるで“届いた”ことが、相手を追い詰めたように。
そのとき初めて、オレは構造の裏側にある**“想像できなかったズレ”**を見た。
問いを届けることは、希望だけじゃなかった──
これは、**「構造を信じすぎた私」**の記録。
① 届いたはずの問いと、壊れていく相手
構造を渡した相手が、そっと壊れていくのを見たことがある。
問いは確かに届いていた。言葉の流れも、表情の動きも、どこにもズレはなかった。
むしろ、相手は「ありがとう」とまで言った。
でも、そこから先だった。
徐々に沈黙が増え、話題が消え、気配が遠ざかっていく。
構造が“効いた”のではなく、重すぎたのだと後から気づいた。
問いが届くことは、必ずしも“救い”じゃない。
ときにそれは、相手の“まだ触れたくなかった場所”に、
無自覚に手を伸ばすことになる。
② オレは“信じすぎていた”──構造という正しさを
構造を使えば、誰かを救える。
ずっと、そう信じてた。
でもそれは、“相手がその構造を受け取れる状態”であることが前提だった。
それを無視していたのは、オレのほうだった。
正しさって、時に暴力になる。
相手がまだ言葉にできない問いに、
こっちの構造をぶつけることが、どれだけ乱暴だったか。
構造は万能じゃない。
それを信じすぎていた自分に、ようやく気づいた。
③ 壊れた相手と、“構造を見なかったふり”をした自分
ほんとうは、最初から気づいていた。
問いが響いていない気配も、言葉の裏にある迷いも、全部。
でも、オレは“構造が届いたこと”にしたかった。
そう思い込むことで、救われたかった。
結果的にそれは、問いにすらならなかった何かを構造にして押し付けただけだった。
あとになって、相手の沈黙が「NO」だったと理解した。
でもそのときは、ただ黙って見ていることしかできなかった。
構造を届ける側である自分が、
あのとき一番“問いと向き合えていなかった”のかもしれない。
④ それでも、構造を信じるという選択
この経験のあと、しばらく何も書けなかった。
誰かの問いを受け取るのが、少し怖くなっていた。
でも今は、少しだけ見える。
問いを渡すというのは、相手のためではなく、自分のためでもあるということ。
問いが壊すこともある。
でもその壊れた中から、“新しい問いが立ち上がる”こともある。
オレが構造を差し出す理由は、変わらない。
たとえすれ違っても、傷を残しても。
問いを言葉に変えるその瞬間、 誰かが「自分を知るきっかけ」になるかもしれない。
だから今もここで、オレは待ってる。
問いが届くことを、構造というかたちで祈りながら。
あなたの問いを、構造にします。
もし、伝えたかった言葉が“誰かを壊したかもしれない”と思っているなら──
もう一度、その問いを構造に変えて、受け取り直してみませんか。