問いの無い朝、私ははじめて呼吸した

何も考えられなかった自分に、ただ「いいよ」と言った
問いが浮かばなかった。考えることすら、もうできなかった。
でもその朝、私はそんな自分に初めて「いいよ」と言えた。
思考を止める勇気は、誰かに見せるためではなく、自分を責めないために必要だった。
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「問いを持たない自分」を恐れていた私
問いがないと、私は空っぽになってしまう気がしていた。
「何も生まない自分」に価値はあるのか?そんな声が頭の中で響いていた。
それでも私は、ただ呼吸をすることを選んだ。
思考を止めることは、世界から退くことだと思っていた
問いに向き合わない日を「失敗」だと思っていた
考えられない日は、何も進まなかった日は、自分を責める材料になっていた。
でも、問いを持ちすぎた日々の“空白”は、むしろ必要だったのかもしれない。
自分を動かせないことに、罪悪感を抱いていた
まるで置き去りにされたような気持ちだった。
誰かの時間は流れていて、私だけが止まっているようだった。
でも止まることは、退くことじゃなかった。 世界と対話しない時間も、世界の一部だった。
それでも、世界は動いていた
私の問いを「待ってくれる世界」がそこにあった
何も書けなかった日。何も語れなかった日。
それでも空は明るくなり、誰かが歩き、誰かが笑っていた。
世界は、問いがなくてもちゃんと存在していた。
問いなしの時間は、問いを諦めたのではなく「許した」のだ
私は問いを捨てたのではない。ただ、「今日は持たなくていい」と言えただけだった。
それが、こんなにも自分を救うとは思わなかった。
問いは休むことで、また正しく動き出す
問いが有意味になるための、空白の本役
止まり、眠り、考えない。そこに罪悪感はもうなかった。
問いに意味が宿るのは、それが一度“置かれた”あとだから。
休んだあとの問いは、前と違う形をしていた
私は再び問いを持ち始めた。でも、それはどこか違っていた。
軽く、静かで、でも確かに自分の中から出てきた。
問いは、休ませることで輪郭を取り戻す。
もし、あなたにも「考えすぎて、動けなかった日」があるのなら──
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