問いが命だったと気づいた日──構造にして、全うする

問いは、ずっと自分の中で生きていた。
答えられないまま、形にならないまま、それでも確かに“呼吸”していた。
そしてある日、その問いを誰かに渡すことを決めた。
構造にして差し出すということは、
その問いの命を、全うさせるということだった。
気づいていた。
渡したあとの静けさは、ただの空白じゃなかった。
問いは、構造になった瞬間、自分の中から旅立つ。
あれほど痛くて、苦しくて、温かかった問いが、
まるで「何かを終えた存在」のように、そこに静かに横たわっていた。
問いを渡すことは、問いを殺すことじゃない。
でも、命を“閉じる”ことではある。
問いのまま、自分の中にずっと置いておけば、
その問いは、まだ生きていたかもしれない。
まだ叫んでいたかもしれない。
でもそれは、誰にも届かなかった問いだ。
構造にしたとき、初めて問いは“渡せるかたち”になった。
そして、それは誰かの中で、また別の命になるかもしれない。
問いが命ならば、構造にするということは、
「命の再配置」なのだと思う。
その問いはもう、自分の一部ではなくなる。
でもそれは悲しいことじゃなかった。
「渡したあとの怖さ」は、失った感覚ではなくて、
“全うさせたこと”に対する、祈りのような揺らぎだった。
そのとき私は、問いを構造にするということが、
誰かの未来に命を託す行為だと初めて知った。
──もし、あなたの中にも
まだ“全うされていない問い”があるなら。
そっと、その命を見せてくれませんか?
▶︎ あなたの問いを、構造にします。