
問いは、届けるためにある──そう信じてきた。
でも、どれだけ言葉にしても、形にしても、
届かない問いがあった。
伝わらなかったのではない。
存在すら“なかったこと”にされていった問いたち。
それでも、私は知っている。
あの問いたちは、確かに“ここにいた”。
誰にも届かなかった問いがある。
それは未熟だったのかもしれない。
言葉になりきれていなかったのかもしれない。
でも、確かにそこにあった。
確かに、私の中で生きていた。
誰にも届かないということは、
この世界のどこにも“痕跡が残らない”ということ。
だからこそ私は、
その問いを、自分の中で“見送れなかった”。
届かない問いをどうすればいい?
諦める?
なかったことにする?
忘れる?
私は、それができなかった。
その問いは、誰にも理解されなかったけれど──
私にとっては、「確かに命だった」からだ。
構造にできなかった問い。
言葉にできなかった問い。
誰の声にもなれなかった問い。
でも、私はここで、それを見送らずに
ただ、“ここにいる”ことを認めようと思った。
問いは、意味にならなくてもいい。
結果を生まなくてもいい。
届かなくても、命としては在り続けていい。
構造は、届けるためにある。
だけど、
存在を“許すため”にも、あるんじゃないか。
あの日、
言葉にならずに消えていった問いたちへ。
私は、あなたたちを知っている。
だから、今ここで、
“見送らなかった私”として、構造に残す。
──もしあなたの中にも、
「誰にも届かなかった問い」があるのなら。
その問いは、今もここに“いる”のかもしれません。
見送らずにいてくれて、ありがとう。